『どろろ』
手塚治虫の同名漫画が原作の映画。魔物に奪われた体の四十八ヶ所を取り戻すために戦う少年百鬼丸と天下一の大泥棒を自称する男装した女の子どろろが魔物退治の旅をする話。その道中で少年が青年に成長していくという描き方で哲学的な話なんかも入っています。ただ、原作は打ち切りのような終わり方で完結しています。
原作付きの映画は元々が2時間以内の尺に収まるようにできていないので以下のような選択肢を取ることになります。
- 原作の主要エピソードを拾った構成
- 原作のいくつかのエピソードをミックスした構成
- 原作をモチーフにした完全オリジナルストーリーを展開
1は原作が短編の場合に多くある構成で、設定の齟齬やストーリーの破綻があっても「原作通り」((c)糸色望)という理由で回避ができるメリットがあります。その反面、無難な仕上がりになることが多く、可もなく不可もなくしいて言うなら「原作通り」だったとかいう感想が多かったり。ストーリに目新しいところも無いので演技や演出面に目を向けることになります。
2は中・長編の場合に多くある構成で大抵続編ができます(笑)脚色と脚本力がそれなりに求められ、説明不足だとか原作を見ていないと分からないとか言われてしまうことがあります。つなぎ合わせるためのアレンジがうまく作用して認められれば絶賛されますが、そうでなければ「原作と違う!」と非難を浴びることが多いように思います。
3は「リメイク」という逃げ道がありつつも、作品の是非以前に「原作と違う」という突込みが入ってしまいます。2の範疇でも3扱いにしてしまいたいというものもあったりなかったり……。映画に限らず「○○ってタイトルをつける必要無いじゃない」というものは色々蔓延していますけどね。ガ○ダムとかラ○ダーとか。
で、どろろは1のパターンです。全集版で4巻か5巻だった記憶があるので、長さからするとその選択肢は正しいと思います。主要エピソードを拾いながら映画の枠内で話を終わらせるためのオリジナル設定を付け加える形で、非常に無難な布陣です。20億かけてこけるわけにはいかないというスポンサーの意図、もとい、熱意が伝わってくるようです。
CMをご覧になっていればお分かりだと思いますが、ワイヤーアクションだったり、戦闘のモブがコンピューターで動いていたりと、雰囲気は『HERO』とか『LOVERS』みたいな感じです。そしてエピソードの取捨選択が非常に問題だったりするんですが、それはネタバレに含まれるので以下のネタばれ有りの感想で
エピソードの取捨選択は原作の最初の百鬼丸とどろろの出会いから鯖目の話と最後の百鬼丸と醍醐景光の決着(原作は打ち切り気味だったので補足している)を描いて、途中の妖怪退治は連続アクションシーンという扱い。この構成に合わせて原作と設定と展開が変わっています。以下覚えているところ
原作との設定の相違点
- 時代
- 原作:年数をはっきりとは書いていなかったが、おそらく戦国時代
- 映画:賢帝暦三○四八年(?)と外国の記録から参照することで年代をぼかしている
- 琵琶法師
- 百鬼丸の名前
- 原作:確か育ての親の寿海が付けた名前
- 映画:左手の刀の銘。寿海と二人きりだったから名前をつける必要が無かったのだろうか
- 百鬼丸の体
- 原作:木製の擬体
- 映画:死体から作った再生能力のあるホムンクルスのようなもの
- 百鬼丸の腕の刀
- 原作:寿海が若い頃に使っていた無銘の業物
- 映画:妖怪に家族を殺された刀鍛冶が作った復讐の刀「百鬼丸」
- 百鬼丸が寿海の元を出て行った理由
- 地獄堂がある寺の住職
- 原作:醍醐景光の儀式を見てしまって逃げる途中に切られて終わり
- 映画:琵琶法師や百鬼丸に事の全貌を伝える霊体になっている
- 多宝丸の名前
原作と映画で違う展開
- 百鬼丸の登場とどろろの出会い
- 原作:街道で妖怪に遭遇
- 映画:街中に百鬼丸が乗り込んでいく
- どろろが百鬼丸の過去を知ったきっかけ
- どろろが百鬼丸についていく理由
- 鯖目の話
- 原作:途中から正気に戻って生存
- 映画:最後まで「愛してる」と言って死亡
- どろろの背中の透かし彫り
- どろろが女に戻っていいという話
- 醍醐景光の百鬼丸に対する認識
- 醍醐景光の城
- 原作:城ではなく屋敷
- 映画:ハウルの動く城を思わせる南蛮風の居城
- 多宝丸
- ラスト
こういった変更点は2時間という尺の中で収めるためのものなのですが、原作の方で描かれていた戦争に対する庶民の怒りは薄くなっていて、百鬼丸親子と妖怪退治のかなり個人的な問題に収まってしまっている印象。尺の都合上仕方ないんだろうけどばんもんを出しておいて単なる国境扱いというのは原作読者としてはもったいないなぁという印象。
後、ラストにつながるまでの妖怪退治がバトルシーンのみなので、それを通じて得られる百鬼丸の成長がほとんどカットされてしまっている。そのため百鬼丸の葛藤や成長がラスト周辺に押し込められていて、その結果が「自分の道を歩いていける」*2原作の百鬼丸とばんもんの前でどろろを待っていた百鬼丸の差につながっている印象。
映画として起と転結に尺を取っているこの構成はハリウッド映画っぽい構成で「間の葛藤とかダルい、バトルシーンと結果だけほしい」というタイプの人や、原作読んでない人にはいいのかもしれない。原作読んでる自分は「うーん」だったけれど。
キャストは年齢的に無理だろうと思っていた柴崎コウが好演していた。あそこまでギャグや顔芸をやってくれるとは思わなかったなぁ。最初に百鬼丸に「女か」と言わせたのもよかったかもしれない。他のキャストは思ったより違和感が無く、良かったと思います。
演出関係は
- ワイヤーアクション:前々からワイヤーアクションやると人間の体が加速度とか無視して軽すぎるように思うし、百鬼丸はそういう超人系キャラというわけでもないので(むしろ人間でありながら体に仕込んだ兵器で知略でどうにかするタイプ)分かりやすさ優先といった感じか。
- 雑兵がそれぞれ動く:TVで解説特番をやっていてすごいと思ったのですが使われているシーンがほんの数十秒でした。これはもったいない気がするなぁ。どうしても必要だったかと言われればそうでもないし
- カメラの色味が黄色い:うまく作用しているシーンがあったりなかったり。
- 醍醐の城が南蛮風:流行なのかもしれないけどあまり合ってるようにも思わなかったなぁ
などといった感じ。
全体的には原作ファンなら話が補完できるだろうし、原作未見ならキャストとアクション目当てで映画館に行ってもそれなりの満足感を得られるのではないでしょうか。席の後ろにいた客が「絶対続編あるって」と連呼していたのに「原作もあれで終わりだっつーの」と脳内突込みを入れ続けていたのが一番記憶に残っているという微妙な状態でしたが。