日常/非日常のギャップからくる面白さの話
「HARI's March hare site そして(まともな登場人物は)誰もいなくなった。 〜ギャクマンガの末期症状についての私的考察〜」
(http://www.netlaputa.ne.jp/~hari/mousou13.html)
を読んで書いてみることにした(まとまってなくて、言い換えただけのようもするけど)とり・みきの『るんるんカンパニー』のハヤカワコミック文庫版の後書きで吾妻ひでおが
- 非常識な人(『るんるんカンパニー』で言えば秋田先生)
- 常識人
の温度差によってギャグが生まれるといった主旨のことを言っていたことを思い出した。両者は同じ物語の中にいるので常識人(や作者や読者)は非常識な人に次第に慣れていって温度差が縮まっていく。結果お約束しか起こらないぬるい空間になってしまい、マンネリ化が促進されることになる。
作者はそれを回避しようと非常識な人の温度を上げ続けることになる。結果、温度差は同じでも皆非常識な人ばかりになって、自分と同じ常識が通用する世界なのだと教えてくれる人間がいなくなる。結果「そういう世界なんだ」の一言で片付けられることになり、コアな読者層以外ついてこない世界になる……ということだろうか。
これはギャグ漫画に限らず、日常空間から非日常空間に登場人物が巻き込まれていく話全般に当てはまるような気がする。『機動戦士ガンダム』で言うと
- 日常 :サイド7での生活
- 非日常:軍での生活
で、次第に話が進むにつれて
になって終了。続編の『機動戦士Zガンダム』ではニュータイプが日常的になって、今度はオーラが出てきたり……そうして話は続き、『F91』や『V』では「かつてガンダムと呼ばれる名モビルスーツがあった」「ニュータイプと呼ばれる人がいた」世界になる。機体が時代が下るにつれて性能が上がるのは仕方ないにせよ、キャラクターの能力のインフレを止めたことは評価すべきところだと思う。だが。結局、宇宙世紀作品はこれ以降の未来は作られずに終わり*1、この後はシリーズごとに世界を変えることになる*2。
『V』の混迷ぶりをみるとやはりこのパターンが(かなり強引だが)当てはまらないでもないような気がする。強引にまとめるとすると
- 日常と非日常のギャップが物語の面白さに寄与している
- 話が進むにつれて、前の話で非日常だったことが日常になっていく
- 日常の基準が非日常に近づいていく
- 新規参入のハードルが上がり見るのは以前からのコアなファンだけになる
ということだろうか。こう書いてしまうといたって普通の現象だ。ジャンプのバトル漫画のインフレにだって当てはまる。問題は3から4へいくか行かないか。ゲームの話になってしまうが、かつて『電撃王』で連載されていた「岡本吉起の気になるアソコ」というゲームクリエーターの対談企画で「続編を作る時には90%以上はシステムを同じにする」という話が書かれていた記憶がある*3。続編でもそれなりに基準を合わせなければ新規参入層と前作プレイ層のバランスを合わせることができないのだろう。
しかし、『ガンダム』の場合は富野監督のたゆまぬ努力によって常に常に新しいことを提示していこうとするので3から4への進行が激しいのではないだろうか。近年富野監督が芸能とか普遍性を強調するようになったのは3から4への進行の緩和も一部入っているような気がする。
まとまってないけれど、富野アニメが一般人が見るには難解な理由はこの辺りにも原因があるんだろうかなぁと、そういう話です。